Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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個の可能性研究会読書会 
藤原正彦『祖国とは国語』東京:新潮社、2006年
2006年7月2日16:00-19:00(学士会館)における発言

永澤:賛成の意見なんですけど、厳密に言えば、問題点としては、ナショナリズムと祖国愛とかね。
永澤:いやいや、という人もいるかもしれないですけれど、この際そんな些事にはこだわってはいけない、と。彼の言うように、そもそもの本当に危機的なポイントというのは、いわゆるその国語能力ですよね。言語能力っていうような抽象的なものじゃなくて、やっぱり日本語の「標準語」でもいいんですけれども、その日本語の標準語がそもそも操れない、そこをどうにかする必要があるということで、基本的にはそれには賛成なんですね。それにやっぱり、「古典」と言われるものが追放されて、やたらに現代の最近のものを取り入れるのもどうかな、それはまずいって彼が言っているように、やはりもっと「骨太」のものを教科書に残すべきだし、っていうふうなところには大賛成です。
永澤:いや、あの、今言われた程度のことは、もう繰り返しこの手のものが出るときに言われていた程度のことなので、実質的にもう、完全に今回が、ここまで言われるぐらいの危機であるっていう論証には全然弱いんですよ。さしあたりもう少し、決定的な数値とかを示してくれないと、これは単なる、デマゴギーみたいな感じに受け取らざるを得ないんですよね。例えば、どういう基準で、そういうふうに今おっしゃっていた「劣化」ということが言えるのかの基準ですよね。基準を出してくれれば話し様があるんですけど、まあこれはただのレトリックとしか私は取れない。しかも非常に陳腐な、何十回、何百回と耳にしているようなもので、おそらく意図的にこういう書き方とか、レトリックを取る非常に才のある、うまい人だなっていう気がするんですね。あえて彼を褒めればの話ですが。つまり、最初っからこの客観的な議論の場っていうものを設定しないで、それこそ、この人の言っているように、情緒的に共感を得ようっていう戦略だとしか思えないんですよね。さしあたってそれ以外反論は無いですけれども。
永澤:百歩譲って、今非常にこの日本人の、一般的に言って「劣化」が進んでいるっていうことだとしても、それは今までと同じような、何ら真理性の無いようなレトリックが売れてしまうっていう、むしろこれはベストセラーになってしまっているんですよね、あいかわらずね。そういうことがむしろ私は問題だと思うんですけれども、それについても昔とさほど変わっていないことが繰り返されているという気がするんですね。
永澤:あの、今ずうっとかみ合っていないと思うんですよ、議論が。ですから、かみ合せるためには、私が言ったことに答えていないんですけど、言語能力の、ただ単によかったかどうかって言っても、下がり続けているっていうのが本当だと思うんですよ。昔もよくなかったかも知れないけれども、今いっそう悪いと。つまり下がり続けているっていうことですよね。ですから、知的能力の指標は何かっていうことをまず、国語能力としてもいいんですけど、あるいは言語能力としてもいいんですけれど、それがずうっと下がり続けていることを、例えばグラフとかで示せるような、客観的な指標っていうのは一体何なのかっていうことを、示してほしいんですよ。彼は何を言っているのか。例えば読解力とかを、ね。何でそう言えるのかっていうことですね。昔も悪いって言っている訳ですよ、大越先生は。何で昔も悪かったにしろ、昔の教育がひどかったじゃないかって言っているのに、今は、一層悪いって言えるのか。その基準は何なのか。
永澤:読書量っていうことでもいいんですよ、単純に。
永澤:でもそれは、国語に限りませんよね、特に国語なんですけれど。要するに、5パーセントか1パーセントか何パーセントか知りませんけど、ゆとり教育の趣旨っていうのは、国家のリーダーたるべき人材の例えば5パーセントだけを特別扱いして、その他の95パーセントの生徒達の学力とかが劣化しても、もうやむ無しと、そういう明確な選択のもとに減らした訳なんですよ。で、学校教育を減らしても、塾とかでやる訳だしっていうことも考えられていたし、っていうこともあって、それでやられて来た結果ですよね。
永澤:その点についてはどういうふうに。
永澤:あとは、最初に言ったこと。
永澤:あとは私ちょっと援護したいんですけれども。
永澤:42ページの、漢字が削減されたが故に、万葉集、徒然草、方丈記、などなどの、ほぼ、こういった古典が制限されてしまうと。これは以上に憂慮すべきものであって、非常にまずいと。これは客観的に言えることですよね。彼の出している中で。これはよく分かると思います。主張として。ちなみに私も、ここの点は憂慮していますね。
永澤:学校では無理。つまり、読ませるのは無理であるとしても、学校では習慣をつけさせることすら無理だと思いますよ。
永澤:だから、ポイントなのは、彼は、学校教育じゃなきゃ駄目なんですよ。つまり、単に国語の、知的能力を上げるってことに意味を見出してる訳じゃない。つまり、「祖国愛」っていうものとワンセットじゃないと駄目なんだと。だから、祖国愛の基礎っていうのは、日本の古来の、それこそあれですよ、本居宣長の言っているのと全く同じ考えなんですけれど。日本的な情緒っていうものをワンセットにしたような言語能力ね。だからこの、『祖国とは国語』っていう、これをやらなければ意味が無いっていうことなんですね。それで、彼は、やっぱり普通の考えもそうだと思うんですけれど、学校以外ないんじゃないですか。家庭っていうのは、やっぱりコスモポリタンな家庭もあるし、学校でしかできないんですよ。家では、すごく本があって、学校教育が全く無くても、素晴らしい言語能力を形成している人はいっぱいいますし、昔から本当にそれっていうのは、家庭教師ですよね。だけど彼に言わせれば、それだと、必ずしも「祖国愛」を持った人間には育たないから、駄目だって言っている訳ですね。そこで、批判されるところもあると思うんですけれども、それはまあ、そうじゃないですか。だから、彼が言っていることが正しいと言えるかどうかは、学校でそれが本当に可能なのかどうかということだと思うんですね。で、それが可能であるということでなければ、彼の言っていることは成り立たないということなんですね。おそらく、私が今言いたいことは。で、言語能力っていうのは、ただ身に付いてるんじゃ駄目だって彼が言っている例としては、金儲けにばっかり邁進するような奴は、言語能力があっても駄目だって彼は言ってる訳ですね。で、よく出た例として、例えば、堀江貴文ですよね。彼は、要するに、家で百科事典を全部読んだ人なんですよ。だから、学校教育とは関係無しに、言語能力は、普通の人間より遥かに高いんですよ。で、IT関係とかでも、トップにいる人の、ほとんどかどうか知りませんけど、言語能力は高いと思いますよ、おそらく。だけど、彼に言わせるとそういうのは駄目なんですね。で、今の私の考えに対して、皆さん、ちょっと、ご意見を言って頂きたいんですよね。どう思うか。学校教育っていうことの彼にとっての位置づけっていうのは、そうじゃないでしょうか。
永澤:それは、ほとんどがそうなんじゃないですか。彼は、学校の中で国語の時間を増やせって言っている訳ですから。つまり「国語」っていう形で教えないと駄目な訳ですね。で、家だと、基本的に家庭で読書を強制するわけにはいかないじゃないですか、その内容に関してまで。家で何を読もうが自由なんですから。だから家の中で、日本古来の、そういう万葉集とか源氏とかを読むようにするっていうことにできない以上、それを学校の国語教育で、小学校からやる以外方法は無いって言っているというふうにしか、読めないと思うんですけれども。
永澤:普通に考えて、彼が言っているあのドーデの『最後の授業』の例でも、いろんな考え方、たとえば田中克彦みたいな批判はあるけど、結局は、そういう批判は小さい、と言っている訳ですよ。やっぱり「祖国愛」ってものが、ドイツにもあるしフランスにもあるって、そっちの方が重要だって言っている訳ですよ。それについては44ページに書いていますが、彼が。で、ここで彼が念頭に置いているのはつまり、ナショナリズムというのは「祖国愛」でしかなくて、自分自身のフランスならフランスっていう国に対しての毎日の国民投票になるっていう、有名な定式がある訳ですね。
それを念頭に置いていて、「祖国愛」っていうのは、日々の、自分の国に対する投票である、ワールドカップでのフランス頑張れ、みたいな投票。それはやっぱり小学校っていうような、本当に小さい頃からの教育でしか無いと。だから、実は「祖国愛」とナショナリズムっていう偏狭なものは別だって言っている彼の主張は、嘘だっていうことですよ。私が言っているのは。それは彼の主張から言うと、全く不可分なものでしかない。
永澤:嘘かどうかは別として、彼みたいな批判っていうのは二次的な批判であって、善い「祖国愛」という神聖なものに対して、それが偏狭なものにいわば堕落したものという言い方で、ナショナリズムということを常に対比して述べているんじゃないですか、どこにあっても。ナショナリズムっていう偏狭なものがあるが、私が言っているのはそうではなく「祖国愛」であるっていう言い方で、常に、「祖国愛」について述べる時には、偏狭な、そうではないものとしてのナショナリズムというものを一緒に述べているんですよね、彼は。これには色々典拠があると思うんですけれども、その狙いというのは、私はこれはひとつの戦略的なレトリックだと思うんですけれど、祖国愛はナショナリズムと不可分で、分けられないっていう批判に対する、先取り的な「ナショナリズム批判」なんですよ。
永澤:彼が言っていることですよね。
永澤:「偏狭じゃないもの」という何かと、彼が言っている「祖国愛」というものとを、彼自身は区別できない筈だというのが私の主張なんですね。
永澤:え、だって彼が言っている「祖国愛」っていうのは、国語能力と一体のものであって、全体として捉えると今まさに、宮永先生がおっしゃっている「偏狭じゃないナショナリズム」というふうに、世間一般で普通に言われているものと、何ら区別できないからですよ。というのは、どこにも区別する指標が無い。この本の中で見ていると。彼がはっきり区別している所は無いと思います。
永澤:はい。
永澤:彼が言っているのは、彼が目指しているものの中に、全部「いいもの」を、ぶち込んじゃってるっていう話ですよね。
永澤:だから、常に「祖国愛」イコール、神聖なナショナリズム、イコールいいものは全て考えつく限りぶち込まれたものっていう形でしか、我々人類は語ってこなかったっていうことじゃないですか。だからこんな同じようなこと。
永澤:そうですよ。学校でしか教えられないですよ、そんな大義、というものは。イスラム教の大義と同じく。
永澤:だから私はそれは良くないと思っている訳ですよ。その大義を、学校において、ある特定の権力装置の頂点にいるような人間達だけが、プログラムとして決定して。
永澤:子どもの頃から洗脳するというのは、それをもしいいと言うんであれば、それは別にいいですよ。もしそれ以外に人間を良くする方法が無いというのであれば、それはまさにプラトンの国家じゃないですか。それだったら「原始共産制」も良いってことになりますよ。
永澤:それは、それをやるんであれば、我々の家族というものを破壊する必要があるからです。つまり、家族っていうものが邪魔になるから、家族みたいなものは全部ぶちこわして、強制キャンプみたいな所に入れて、まあ表面的にはソフトにやって、プラトンが考えているように、くだらない親子関係の中で、ごちゃごちゃ、本来は正しい神聖ではない、いろんなくだらないものが注入される以前に、遅くても3歳とか4歳以前から全部国家の施設の中に集めて、洗脳するっていうのが一番いいじゃないですか。それでもいいって言うんならいいですよ。私はそれでも。
永澤:ですから、今彼が言っているもので、この神聖なものが全てぶち込まれたものが、本当に洗脳できるっていうのが、彼が本気でそう思って、そう言っているのかどうかっていうのがまずありますよね。
永澤:いや、洗脳と言っても教育と言っても、どっちでも同じですよ。
永澤:ええ。
永澤:だから教えるっていうのは、寺子屋とかいろんな民間のものとか、いろんな場が本来は、教えるっていうこと、学ぶっていうことについてはある訳ですよね。
永澤:え、だって彼の場合は、もう教える内容が決まっている訳ですから、あらかじめ。
永澤:だってもう、テキストとして決まっているじゃないですか。
永澤:日本の古典。日本の古典として決まっているじゃないですか。
永澤:いや、だから、彼が言っている、教えるべきものっていうのはもう決定されている訳でしょう。そうじゃなければ排除する必要がないじゃないですか。
永澤:だから日本の古典を中核として、それぞれの国の「祖国愛」とか神聖なナショナリズムを涵養するのにふさわしいような『クオレ』とか、ドーデの『最後の授業』とか、場合によっては旧約聖書によるヘブライズムの話でもいいでしょうし、そういったものですよ。
永澤:それはそうですよ。
永澤:問題無いですよ。
永澤:そのふたつは一致する訳ですよ。
永澤:(笑って)違いますよ。私は何も、反対側に突っ走っている訳じゃなくて、どっちの方向に極端に、反対側に突っ走ろうが、最後の危険な所に落ち着くのはどっちも同じだって言ってる訳ですよ。
永澤:ええ。
永澤:じゃ、そっちに絞りましょうよ。
永澤:その前に、論理的に矛盾しているってことを、皆さん多分知りたがっていると思うので、それをまず宮永先生に。
永澤:この人の、論理展開の矛盾っていうものをまず説明して。
永澤:じゃあ、前半で残っていることっていうのはまだ何かあるんですか。それを、まだそこまで行かない前に。
永澤:そんなこと議論しても意味ないんですよ。
永澤:これはもう、本居宣長の考え、思想っていうふうに限定しないと意味ないですよ。古典として、テキストとして残っているものは何かっていうことに、話を限定しないと、まったく限定のないレベルであえて言うなら、「もののあはれ」なんて世界中の人が持っているに決まってるじゃないですか。漠然として考えているにしろ。「あはれ」が何も無い人って、人類でいるんですかっていう話になっちゃうでしょ。沖縄人かどうか、東京人はどうかなんて、ここではそんなくだらない議論をしているんじゃないんですよ。

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